Manamiカウンセリングルームは、あなたのこころの声に寄り添う相談室です。

Manamiの写真

 

長文ではありますが、私が心理カウンセラーになるまでに経験したこと
ざっくり書かせていただきました。

お時間のある時にでも、お読みください。

 

 

平成になり数年が過ぎた頃、杜の都、宮城県仙台市で生まれる。星座はしし座。
会社員の父と看護師の母、4歳上の兄と共に、18歳まで仙台で育つ。

 

仙台駅

幼少期はいわゆる「いい子」だったそう。

 

幼稚園の先生にも、
「自分が思っていることを言わない子」と認識され、母親にもそう伝えられていた。

私としては、自分の意見よりも周りの意見の方が
良いものに決まっていると思っていたし、
自分の意見を言うことで何か言われるのも怖くて言えなかったと記憶している。
(今でもこの癖は残っている)

 

家庭環境は、あまり良くなかった。
両親の仲が悪く、しょっちゅう喧嘩しては、離婚の話をしていた。

夫婦喧嘩

そのうち、家でも自分の気持ちを隠す癖がついた。
何か思うことがあれば、ノートに書いて、誰にも見られないようにした。

 

そんな家庭で私は、愛されていないんだと思った。

 

中学の時に親は離婚。
今では父も母も元気で仕事もうまくやっているので、
離婚してよかったと思っている。

 

高校生の時、進学先を決める時に、
私は大学よりも学費が安い看護学校を志望した。

 

「医療職は食いっぱぐれない」と幼少期から母によく言われており、
看護師という母と同じ職業を選ぶことで、母が喜んでくれるだろうと思った。
それに、学費は母が払ってくれるので、
大学になんて行ったら生活が大変になるだろうとも思ったからだ。
思っただけで、もちろん母にそんな話はしなかったが。

 

でも本当は、やりたいことがあった。

 

受験が迫る10月ごろ、自分のやりたいこととやっていることのちぐはぐさに耐えきれず、
授業の合間に保健室へと駆け込んだ。

話を聞いてくれた保健室の先生は、うんうんと頷きながらこう言った。

 

「ね、スクールカウンセラーと話をしてみない?」

スクールカウンセリング

 

今思えば、これが私の人生で初めてカウンセラーという職業に触れた体験だった。
カウンセラーと数回の面談をして、自分の気持ちがはっきりしてきたので、
カウンセラーの勧めもあり、母に自分の気持ちを話すことにした。

 

その時の記憶はあまりないのだが、とにかく大粒の涙を流しながら、
「看護学校じゃなくて、東京に行きたい」と懇願したことは覚えている。

 

母からは、

「お金はなんとかするから、あんたの好きなことをやりなさい。
大学に行きたいなら大学の学費も払うから」

と背中を押してもらった。本当に感謝している。
(愛されていないなんて小さい頃の私の思い込みだったと思う)

 

大学は都内の私大経済学部に合格し、晴れて女子大生となった。
(しかも上京、私大、一人暮らしというとにかく金のかかる選択をした…母に申し訳ない)

東京というキラキラと華やかな街で過ごしていくのと同時に、
自分が目指す職業になることの難しさや、なった後も大変な生活が待っていることを知った。

 

そのうち、就職活動をする学年が近づき、
夢ばかり追いかけてちゃいけない、安定職に就いて、親を安心させよう…
とその道は諦めた。(全く後悔していない)

就職活動

 

就活後内定をもらったのは、社会福祉の会社。
(具体的な内容は伏せます)
これでひとまず安心だと思い、内定式まで卒論を書きつつものんびり過ごしていた。

 

そして10月1日、内定式。
同期となる人たちと初めて会い、いろんな話をしていくと、
みんなどうやらその道の資格を持っているようだった。

 

私は経済学部だったので、唯一畑違いのところから来た内定者だった。
上司となる人からは、気にしなくていいよ、と言われたが、
その日以降、いろんな考えが頭をぐるぐるすることとなる。

 

私自身の不安もそうだが、将来私の支援を受ける人たちは、
資格を持っていない人に支援されるのは、不安要素の一つなのでは?と思うようになった。

資格について考える女性

 

資格って強いな。
安心材料になるなら、資格、持っていた方がいいな。

 

そして私は、社会支援という軸はそのままに、
奇しくも『看護学校』という選択に舞い戻ることになる。
看護師という職業の選択が、両親を喜ばせることになるだろうと、
やはりこの時も思ったからだ。

 

内定辞退の連絡後、私は急いで看護学校の資料を取り寄せ、
看護学校受験の準備を始めた。

すでに試験日まで3ヶ月を切っていた。

試験科目は現代文、数学IA、英語。
幸い、現代文は得意分野だったし、英語はTOEICの勉強をしていたので、
数学だけとにかく毎日勉強して、無事合格することができた。

 

看護学校での毎日は、勉強、勉強、勉強。
大学では4年をかけて行う勉強を3年に凝縮しているのだから、
仕方がないのだ、と母はよく言っていた。

勉強をしている女性

 

実習が始まれば、実習指導してくれる看護師にいろんなことを言われながら、
計画、看護の実施、記録…など、本当にやることは尽きない。

病棟では学生は陰のような存在となり、そこに存在しているのに、
存在していないかのように振る舞い、誰の邪魔にもならないように実習を進めていく。

 

そんなストレスに耐えていると、近づいてくるのは国家試験。
毎日今までやった復習と、問題集、学校からの課題に取り組んだ。
それもこれも、早く社会人になりたいという思いがあったからだった。

そして、苦労した3年間の看護学生生活も終わりを告げ、
新人看護師として、都内某所の総合病院に勤め始めた。

 

新人ナース

 

 

これが、悪夢の幕開けだった。

 

配属されたのは、性格のきつい人が多いと言われる問題病棟。
数年前にその病棟をなんとかしようと病院側でテコ入れがあったそうだが、
それも成功したのかどうか微妙なところだ。

 

なぜならその病棟こそが、私のメンタルを崩壊させた職場そのものだからだ。

 

報告しようと先輩看護師に声をかけても、無視される。
新人は全ての仕事を自分でするようにと終わるまで3時間も4時間も残業させられる。
しかし、残業代申請をしようとすると、ある先輩看護師から
「新人のくせに残業代申請とかありえないんですけど」。

 

同期の1人は目をつけられたのか、先輩からひどい言葉をかけられていた。
同期は仲が良く、休憩がかぶるとみんなで情報共有をしたり、
たわいのない話をしたりして、私は同期のみんなが大好きだった。
だからこそ、その本人がいないナースステーションで、
先輩たちが同期の悪口を話しているのは、本当にストレスだった。

 

ため息をつく看護師

 

そんな中でも、先輩から質問されて答えられなかったところや、知識で不安なところ、
追加で学習した方が良いところを先輩から指導されれば、
翌日にその成果を持っていくことになっていた。

つまり残業した後、家で勉強をしないと仕事についていけなかったのだ。
家に着いてからは疲れて勉強どころではなく、
ご飯を食べて、お風呂に入り、すぐ就寝。

 

翌日は朝4時に起きて、勉強をしていたので、毎日の睡眠時間は4時間ほどだった。
そんな生活を続けること早2ヶ月。(たった2ヶ月!)

寝不足の女性

 

毎日職場に行くことがストレスだったが、
休んでしまうともう二度と職場に行けなくなると思い、
とにかく電車に乗り、職場へ向かった。

この時もうすでに、吐き気がひどく、体重もどんどん落ちた。
母が作ってくれたお弁当を、手付かずで持ち帰っては、母を心配させていた。

 

ある日仕事から帰った私は、母の顔を見ただけで、泣き出してしまった。

泣いている女性

 

「別に職場でミスをしたとか、そういうのはなくて、
だからなんで泣いているのか、よくわからないんだけど…」

 

涙は止まらず、落ち着いて眠ったかと思えば、
翌日仕事に行く前も、同じ状態に。

 

母からは、「今日は仕事を休んだら?」と言われたが、
休んだ後の先輩たちが、師長が、怖かった。
何を言われるかわからないし、今まで頑張ってきたのに、
こんなところでだめにしたくない、と思っていた。

 

たった1日休むことが、この時の自分にとってはかなり重い問題だった。
当時は、「仕事に行くか、死ぬか」の2択だった。本当にそうだった。
もうこの時点で、かなりメンタルがおかしくなっていたと今では思う。

 

 

そして無理して行った職場で、問題が発生する。

 

先輩からの指示を、覚えていられない。
言われたことの、メモが取れない。
「さっき自分で言ってたよ?」と先輩に指摘されても、
自分が何を喋ったのか、まるで覚えていなかった。

 

持っていたメモ用紙は、これまで見たことがないほど白紙になっていた。

 

この日どうやって仕事を終えたのか全く覚えていないが、
なんとか帰宅し、自分が本当におかしくなってしまったんだと、ここでやっと自覚した。

力尽きている女性

 

次の日は休みだったので、当日受付をしているメンタルクリニックに行った。
そして今まであったこと、現在出ている症状などを話すと、

「この状態を診断するならば…適応障害ですね。
しかも、結構セロトニンが出なくなってると思いますよ。
診断書には、抑うつ状態とも書いておきます。」

診察をする医師

 

私はどうやら、病気になってしまったらしい…。

 

確かに、精神的に辛かったとは思っていたけれど、
新人だし、みんな通る道だと思っていた。
私だけが辛いわけじゃない。弱音なんて吐いてる場合じゃない。
数日休んだら、また出勤しなくちゃならない…。

 

「この診断書には、職場環境に問題があるってことを書いておきますから、
上司にこれを出して、異動できるかどうかお話してみてください。
異動先でまた働けるなら良いですし、退職したいならそれでもいいと思いますよ。」

 

その日はこれで終了し、とりあえず受診結果と退職したい旨を
上司にメールで報告(電話には出ない変な上司だった)すると、
翌日職場から電話がかかってきた。

 

困った表情で電話する女性

 

「内容はわかりました。辛かったんですね…。
もっと早く休んでよかったのに。
ここで退職してしまうと、あなたのキャリアとしてはよくないと思う。」

そんな内容のことを言われ、退職はひとまず踏みとどまることに。
もっと早く休んでよかったという割に、スタッフのことを守ってくれない上司だった。
それをわかっていたので、上司との電話に緊張しながらも、内心腹が立っていた。

 

そして、一つのことがこの電話ではっきりした。

異動という選択肢はない。
復帰するなら元の職場しかない。

 

上司に報告した結果、どうやら異動の選択肢はないようだ、
ということを主治医に話すと、

「うーん、そうですか。Manamiさんの状況がよくなっても、
元の職場に戻っては同じことの繰り返しになってしまいます。
それなら、思い切って2ヶ月ぐらい、休職しましょう!

 

あの職場に、2ヶ月も行かなくて済むんだ…。
そんなふうに考えた私は、ほっと胸を撫で下ろした。
少し休もう。休んで良いんだと、お医者さんが言ってくれたんだから。

 

 

しかしここからが、本当に大変だった。
この日から処方薬をもらい、薬のおかげでなんとか眠れるようになったり、
眠れるおかげで食欲も出てきたりしたのだが、
メンタルは波があり、調子の良い日と悪い日がいろんなタイミングで訪れる。

今日は調子がいいと思っても、次の日はどん底へ。
そんな毎日が続き、復職どころではなかった。

座り込んで悩む女性

 

やっと社会人として、社会の一つの歯車になれたのに、
こんなところで、あっという間に休んでしまうなんて、
なんて自分は無価値な人間なんだ…。

 

毎日のようにそんなことを考えていた。

 

 

そして、休職して3ヶ月が経とうかという頃、
私はついに、退職の決断をすることにした。
受診した日は師長に報告のメールを打つことになっており、
これもかなりストレスの一因となっていた。

 

全部解放されたい。

 

そんな思いから、キャリアなんかよりもこの職場を離れたいと強く思った。

退職したことは全く後悔していないが、もし就職先がこの病院でなかったら、
きっと今でも看護師として働いている自分がいたのかもしれないと思うと、
少し悔しい気持ちはある。

退職届

 

その頃私は、退職したことで、きっとメンタルも戻っていくだろうと思っていた。
しかしそれは、本当に甘い考えだった。

 

体調やメンタルに波があるのは、今までと対して変わらなかったからだ。

 

なかなか良くならない私の状態を診て、主治医は

「適応障害にしては少し長いですね。
気分のいい日もあるようだし、双極性障害の可能性が高いかもしれません。
新しい薬を処方するので、これを飲んで様子を見てください。」

説明する医師

 

適応障害は、双極性障害へと診断が変わった。
よくなっている感じはなかったが、薬が増えると、やはり少し落ち込んだ。

 

 

長い長いトンネルに入ってしまったようで、出口が見えなくて、
本当に辛かった。
生きること、生きていることについて、よく考えていた。
同居していた母にも、本当にたくさんの不安と心配をさせてしまったと思う。

 

 

病院を退職してから半年。
母の知り合いの医師から、うちのクリニックで働いてみないかとお誘いがあった。
正直、乗り気はしなかった。
もう看護師は辞めようと思っていたから。

 

しかし半年の間、無職でただ家にいるのも、罪悪感で押しつぶされそうだったので、
職場見学ののち、非常勤看護師として短い時間から働くことになった。

社会に戻れる嬉しさと、また看護師として働くことに対する不安や緊張感で、
何だかよくわからないまま、日々が過ぎていった。

 

働ける時間や日数が増えていったある日、上司から

「常勤になってみない?」

と打診を受けた。

 

正直かなり不安で、断りたい気持ちの方が大きかったが、
そこで踏ん張らないと母に安心してもらえないと思い、承諾した。
(いつまでも母がどう思うかを気にしていた)

 

常勤となってから、数週間。
ある患者さんのカルテを読んでいると、以前勤めていた病院が書かれているのを発見。
その瞬間、冷や汗、動悸、吐き気がして、目の前がチカチカした。

 

パソコンを見ながら困っている看護師

 

診察室で先生がその患者さんと話している間にも、何度かその病院の名前が出て、
その場にいることが辛くなってしまい、タイミングをみて、
診察室から少し離れた場所にすぐ移動した。

 

常勤となってからすでに体調があまり良くなかった上、
この出来事があってから、私のメンタルはかなり動揺していた。
普通に働くことが、またできなくなってきていた。

 

そして、主治医と話すと、
二度目の休職を勧められた。

「頑張り過ぎたのかもしれません。
落ち着いて、少し休んで、そしたらまた頑張りましょう」

 

何度休んだら、私の体は、心は、元に戻るのか。

 

そもそも働ける状況ではなくなっていたため、休職を受け入れるしかなかった。

休職や薬物療法のほかに、何かできることはないか。
その時、ふと高校生の時に受けたカウンセリングを思い出した。

スマホを見て驚いている女性

 

これだ、と思った。

 

すぐさま家の近所でカウンセリングを行なっているところを調べ、
近い日にちで予約をとった。
担当してくれたのは、60代ぐらいの男性カウンセラー。
見た目は小柄で、優しい雰囲気ではあるが、私の認識が偏っているところを見ると、

「それは、本当にそうですか?」

とツッコミを入れてくるような人だった。

 

おかげで、自分の認識と、事実が異なっている可能性に気づくことができた。
また、自分が陥りやすい考え方や、思考に癖があること、
そんな時にどう考えたらよいかなど、一緒に考えてくれた。

 

考えている女性

 

そのうち、自分の中でモヤモヤしていたものが晴れてきて、
思考の整理ができるようになった。
これまで自分がいかにガチガチの頭で考えていたか、
どんなふうに考えてしまう傾向があるのか、
そのカウンセラーのおかげでよく理解することができた。

 

 

その後私は、薬も必要とせず、今はフルタイムで働くことができている。(看護師は辞めた)
カウンセリングが万能とは思わないが、
思考の癖や認知と事実に隔たりがあることに気づくことができ、
今は以前よりも生きやすい毎日を過ごしている。

 

自分の辛い経験があるからこそ、周りの友人や同僚に、
以前の自分と似た考え方や症状が出ているのを見かけると、
話をじっくり聞いて、私は相手に何ができるかを考えるようになった。

 

相手を励ます女性

 

彼らの話を聞いていると、彼らからは

「Manamiさんと話してスッキリした」
「安心してついいろんなことを話してしまう」
「きっと受け止めてくれるだろうと思って話しちゃった」

と、肯定的な反応が返ってくる。

 

『話を聞く』ということは、決して簡単なことではないが、
私がこうして誰かの話を聞くことで、ストレスや不安が軽減する人や、
今後の人生が変わる人がいるかもしれない。

そんな思いが生まれ、今度は自分が心理カウンセラーとして、
誰かを助けるために活動しようと決意した。

 

ハートを持っている女性

 

 

ここまで長い文章を読んでいただき、本当にありがとうございます。

まだまだ心理カウンセラーとして勉強の毎日ですが、
皆さんと一緒に成長していきたいと思っています。

どうぞ、これからもよろしくお願いします!

Manami

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